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横浜地方裁判所横須賀支部 昭和34年(わ)146号 判決

被告人 小野寺精

主文

被告人を懲役四月に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

領置にかかる日本刀壱口(昭和三十四年領第四十九号の一)は、これを没収する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

被告人は、横須賀市田浦町に生れ、同市田浦小学校、旧制逗子開成中学を経て、昭和十八年四月早稲田大学高等師範部国語漢文科に入学し、昭和二十二年三月同大学同部同科を卒業し、同年四月逗子開成中学校教諭となり、七年間同校において国語科を担任し勤務した後、昭和二十九年四月一日横須賀市立坂本中学校教諭となり、爾来昭和三十四年四月二十六日本件暴行、銃砲刀剣類等所持取締法違反の嫌疑により逮捕されるに至るまでの間、同校において国語科を担任し勤務していたものであるところ、生来まじめで、内閉性の性格で、自己顕示性に乏しく、運動神経がにぶいことなどから、中学生の頃から劣等感を抱くに至り、学校教育を卒え、中学校教師として社会に出た後も、自己の意思を他人の面前で発表することを極度に嫌らい、その反面、負けず嫌らいの剛直性の一面もあつて、よくその職務に精励するため、生徒及びその父兄からは深く信頼され、めだたぬとこるでした自己の努力の成果を、ひとりひそかに期待しているという傾向があつたものであるが、昭和二十九年十二月頃右坂本中学校の一年生を受け持つていた当時、しばしば同級生に対して暴力をふるい暴力的な問題性のあつた同中学校一年生Bに対し、被告人みずから鉄拳をふるつてその顔面を数回殴打し、同人に制裁を加え、篤と暴力の非なる所以を説諭し、再びその非を繰りかえさぬよう訓戒を与えたところ、その後、同人は却えつて被告人を慕うようになり、なにかと被告人に相談をもちかけ、同級生などに対しても、暴力をふるわぬようになつたことなどから、いわゆる不良性をおびた問題性のある生徒達、すなわち、非行性のある少年に対する補導に関して特に関心をもつに至り、彼等は、現在の一般学校教育及び社会一般からは、兎角その善導は至難ないし不可能であるとして、等閑視されがちであるが、かくては、彼等は益々不良化の一途を辿るのみで、その更生を図かることは到底期待しえないから、彼等の将来を思えば、これを現在の一般学校教育に委ねて放置しておくことはできない、と深くこれを考え、これら非行性少年に対しては、前記Bに対する経験にかんがみ、まず、これを殴打するにとが、その補導上なによりも効果的であるから、むしろ、この際、これに対する非常手段として、これを殴打する等の非合法的な手段を用いても、ひとまず、これを被告人の居宅等自己の身辺にひき寄せておき、もつて彼等がさらにより以上の不良化されることを防止するとともに、他方、彼等に対して、不良徒輩の社会が如何に醜悪なものであるかを如実に知らしめ、よつて、彼等をして、それに転落することのなきよう自覚せしめ、漸次これを善導するのほかなしと思惟し、前記○○中学校に勤務する傍ら被告人の居宅その他において、恰かも、被告人自身もかつては不良徒輩の社会に身をおいた経験があるかの如く装い、かかる社会に身を入れ、一時社会から見棄てられたものであつても、自分自身が自分を見かぎらず、かたい決心で毎日々々努力してゆきさえすれば、立派に更生することも決して不可能ではなく、十分更生しうるものであることを身をもつて示し、それらの非行性少年を補導する意図のもとに、坊間やくざの社会において行われているいわゆる「仁義」を、映画その他で見聞したところに做らい、「早速のお控えにあずかりまして、ありがとうさんにござんす。御当所はお兄さんにて御免蒙ります。向いましてお兄さんとはお初にお目通りがなります。従いまして、手前生国と発しまするは関東にござんす。関東関東と申しましてもいささか広うござんす。箱根おろしの枯風、とんとん下りまして、相模灘は磯づたい、東へ歩いて十三里、金波銀波躍る三浦半島は須賀にござんす。国を越しまして、渡世につきましては安藤一家にござんす。東海道は通り筋、草深い大船に推参仕ります。亡くなりました安造四代の跡目を継ぎまする辰五郎身内の若い者にござんす。姓名を発しまする御許しを蒙ります。姓は安藤、名は源次、通称やごろの源と申しまする三下にござんす。今日後、お見知り置き下さいまして末長く万端お引き立てのほどを御願い申上げます。」旨みずから案出し、これを横須賀市田浦町三丁目九番地の当時の被告人居宅に出入する多数(約三十七名のうち二十名位)の非行性少年に対し、それらの非行性少年を被告人のもとにひき寄せておくための手段、また、それらの非行性少年をして被告人がかかる行為に出ていることを他人は勿論親兄弟に対しても絶対に口外せしめないための手段として、その特殊独特な特異の所作を演出しつつ口演しいわゆる「仁義」を切り、かつ、これをそれらの非行性少年にも教え、なお、それらの非行性少年に、これを他に口外しないことを誓わしめて、その旨の誓約書を作成せしめ、これに血判をさせるなどしていたものであるが、

(罪となるべき事実)

第一、(一) 昭和三十一年七月中旬頃の夜分、横須賀市田浦町一丁目五十番地通称十三峠の中腹附近において、あらかじめ同所に呼び寄せておいた、かねて前記○○中学校における被告人の教え子であり、当時同市立△△△××高等学校一年生であつた、かつて右○○中学校在学中、被告人の着ていた洋服のポケットに生蛇を入れたこともある、非行性のあるC(当時十六年)に対し、前記「仁義」を切り「お前はどうして顔を出さないのか、中学時代に可愛がつてやつたのに顔を出さないとは恩を仇でかえすような奴だ。」などと申し向けて、同人の顔面を手拳をもつて五、六回殴打し、もつて同人に暴行を加え、

(二) 同年八月二十七、八日頃の午前十時過ぎ頃、前記十三峠の中腹附近において、同所に呼び寄せた、逗子開成中学校から前記○○中学校に転校し、服装や態度などが悪く、非行性があり、かつ、被告人とCとの右(一)の関係等を聞知していた、当時右坂本中学校二年在学中のC(当時十三年)に対し、前同様「仁義」を切り「お前もやれ。」と申し向け、同人が「できない」と答うるや、矢庭に、同人の顔面を手拳をもつて一回殴打し、もつて同人に暴行を加え、

(三) 昭和三十二年二、三月頃小雨の降つていた日の夜分午後七時半頃、前記十三峠の中腹附近において、同所に呼び寄せた、前記○○中学校における被告人の教え子である、しばしば喧嘩をし、煙草を喫うなど、非行性のある当時同中学校三年在学中のD(当時十五年)に対し、前同様「仁義」を切り、「俺達の仲間には入るだろうな。」と申し向け、これを聞いて困惑していた同人の顔面を手拳をもつて二、三回殴打し、もって同人に暴行を加え、

(四) 同年八月下旬頃の夜分午後八時頃、横須賀市阿部倉町百五十六番地附近大楠山山ろくにおいて、同所に呼び寄せた、かねて被告人の前記の如き所為を聞知しこれをしきりに他に口外し、被告人を「ペテン師」と云つていた、当時逗子開成高等学校一年在学中の(当時十六年)に対し、「お前は俺のことをペテン師と云つたな。」と申し向け、同人が「すみません。」と謝まるや、同人に対し前同様「仁義」を切り、矢庭に、同人の顔面を手拳をもつて十回位殴打し、もつて同人に暴行を加え、

(五) 昭和三十三年四月上旬頃の午前十一時頃、同市田浦町三丁目九十一番地附近山中において、あらかじめ同所に呼び寄せておいた、かねて前記○○中学校における被告人の教え子であり、当時同市立横須賀工業高等学校三年在学中の、しばしば学校で喧嘩をし、言葉遣いが悪く、非行性のあるE(当時十八年)に対し、「お前は俺がこんな人間でも後悔しないか。」と念をおして、所携の匕首(刃渡り十五センチメートル位)を示し、前同様「仁義」を切り、同人の顔面を手拳もつて数回殴打し、もつて同人に暴行を加え、

(六) 同年九月中旬頃の夜分午後九時頃、被告人方の本家である同市田浦町二丁目八十四番地小野寺章方「さくら」納豆製造室において、同所に呼び入れた、その数日前、前記Dらとともに前記当時の被告人居宅を初めて訪れた際にも、その当日右Dらとともに同被告人居宅を訪れた際にも、ともに被告人方において、寝そべつていた、非行性のあるF(当時十七年)に対し、「お前は俺をなんだと思つているんだ。他人の家に来て寝そべつたりしてなんだ。」などと申し向け、前同様「仁義」を切り、これを見て唖然としていた同人に対し、「挨拶もできなくて、それでもチンピラか。」と、矢庭に、同人の顔面を手拳をもつて二回位殴打し、もつて同人に暴行を加え、

(七) 同年十二月十五日頃の夜分午後六時過ぎ頃、右小野寺章方「さくら」納豆製造室において、同所に呼び入れた、かねて前記坂本中学校を卒業し、被告人が前記の如き所為に出ていることを聞知しこれを他に口外した、非行性のあるG(当時十八年)に対し、所携の匕首を示してこれを棚の上に置き、前同様「仁義」を切り、これを見て驚いていた同人に対し、「なんとか云え、よろしくお願いしますと云うものだ。」と、矢庭に、同人の顔面及び腹部等を手拳をもつて三回殴打し、もつて同人に暴行を加え、

第二、法定の除外事由がないのに、

(一)  昭和二十八年五月上旬より昭和三十三年十二月下旬頃までの間、横須賀市田浦町三丁目九番地の当時の被告人居宅において、刃渡約四十六センチメートルの日本刀一口(昭和三十四年領第四十九号の一)を所持し、

(二)  崔容九と共謀の上、昭和三十四年五月十二日頃より同年六月四日頃までの間、同市汐入町四丁目二十二番地望月イワノ方右崔容九の居室において、刄渡約六十七・七センチメートルの日本刀一口(同領号の二)を所持したものである。

(証拠の標目) (略)

(情状についての判断)

次に、本件犯罪の情状について検討する。まず、その動機について考えるに、判示冒頭掲記の如き性格を有し現に中学校教諭の教職にある被告人が、その当時における、または、かつての、教え子である非行性少年達などのゆくすえを案ずるの余り、深くこれを思いつめ、これを、その施策について極めて微温的な立場にある現下の一般学校教育に委ねておくときは、それらの非行性少年を更生せしめる機会を失するものと考え、これをそのまま放置しておくに忍びず、これを被告人みずからの手により補導更正せしめる意図のもとに、その身の破滅を招来するものであることをも忘れ、それらの非行性少年を補導してゆくための非常手段として、非合法的な判示所為に出でたことは、その心情を思えば、恰かも、わが子の安全を希求するの余り火中にその身を投じた母親の純愛にも比すべく、その情まことに酌むべきものなしとしないが、凡そ、法は最少限の道徳であり、すべて道義をその基盤としているものであるから、現代の法治国家においては、これを重んじ、国家並に国民各自は、法規にしたがい、その範囲内においてすべての行動をし、それに背かぬことによつて最少限のものであるが、それの内包する道義を実現し、国家は、これによつて社会の治安を維持し、国民の福利を増進し、進んで国家の隆昌発展を期するものであつて、この法を重んじ、これにしたがう遵法の精神こそは、現代の法治国家において生活を営む者は、何人もこれを堅持せねばならぬものであるから、職を国民の中学教育に従事する教職におく被告人としては、みずからこれを重んじ、これにしたがい、苟しくも、その行動の法規に違背することのなきよう努めることはもとより、その教え子などに対しても、常に、その遵法精神を涵養せしめるよう努めてこれを指導せねばならぬ立場にあるにもかかわらず、ことこれに反し、如何に、その職務とする教育に熱心なためとはいえ、何等その上司、先輩並に同僚等の所見をもたずねることなく、ひとり軽卒にも、現時の学校教育を不信無力のものとなし、みずからを過信して、近時世上、暴力に対する非難の声高き折柄、敢えて、厳存する日本国憲法第二十六条第一項、教育基本法第一条、学校教育法第十一条等の規定の精神を無視し、これに違背する判示暴行等の所為に出ずるが如きことは、「鹿を逐う者は山を見ず」の例えに等しく、明らかに常軌を逸した行為であつて、己を知らざるも甚だしきものというべく、その誤れるもまた甚だしきものといわなければならない。しかのみならず、中学校教諭の教職にある被告人が、よしや、非行性少年の補導の目的のためにもせよ、その手段として、非合法的な判示所為に出ずるが如きは、現行法による「法の支配」を否定するものであつて、そこには、目的のためにはその手段を選ばざる、極めて危険な思想にも相通ずるものがあり、社会生活上健全な思想をもつ者の何人も首肯しえないところであるから、到底容認しえないものといわなければならない。

さらに、「行為は言葉よりも雄弁にその行為者の人格を物語る」行為は人格の所産で行為者の人格の顕現されたものであるから、その行為について社会的批判を加えるにあたつては、いきおい、その行為によつて生ずる行為者人格の根源にさかのぼり、これを探究し把握せねばならない。したがつて、本件所為について、その法律的批判を加えるに必要な犯罪の情状(犯情)を検討するにあたつても、その行為者である被告人の人格が那辺にあるかを深く探究し、それが、如何なる人格に胚胎して生起したものであるかを知らねばならない。そして、これを知るがためには、いきおい、広く、その当時における被告人の行動の全貌について仔細に検討を加え、これを吟味する必要を生ずる。よつて、進んでこの点に関し、その当時における被告人の行動について審案するに、証人Dに対する尋問調書中の同証人の供述記載、並に被告人の司法警察員に対する昭和三十四年四月二十六日附、同年五月十一日附各供述調書及び検察官に対する昭和三十四年五月十四日附供述調書中の、被告人各供述記載を綜合すれば、被告人は、昭和二十八年四月頃、当時横須賀市立浦郷小学校教諭をしていた妻弘子(当時三十一年)と結婚し、爾来同女との間に一子(当五年)をあげ、家庭生活を営むものであつて、その妻子に対しては、常に信義を重んじ、最も誠実でなければならぬ身であるにもかかわらず、判示第一の(五)の本件犯行の当時である昭和三十三年四月上旬頃、右妻弘子に対し、「今日は出かけて来る」となにごともなきかの如く申し偽わり被告人方を出で、非行性のある前記証人D、H、Iら三名の少年らとともに、被告人がかつて前記坂本中学校において三年の組主任として担任した教え子である、Aという当時十六歳位の一女性を帯同して小田原市に到り、同市内の旅館において、ビール四、五本を注文してこれを右四名とともに飲み、被告人が自から同女を説得して、いやがる同女に、遂に被告人及び右少年ら三名計四名と情交を結ぶことを応諾せしめた上、被告人のつくつた抽籤の方法により取りきめた順番にしたがい、白昼同旅館二階の間において、右D、I、H次いで被告人の順に、順次相次いで交々いずれも同女と性交を遂げていることが認められるのであつて、かくの如き行為は、明らかに人倫にも反し、良識ある者の、しかも教職という聖職にある者の、断じて為すべからざる、また、容易に為しえない、ことであるが、これを敢えて行うに至つた被告人の人格には、そこに、まず、多大の非難を加うべきものが蔵されていたものであるといわなければならない。

なお、Jの司法巡査に対する供述調書中の同人の供述記載、証人Dに対する尋問調書中の同証人の供述記載、被告人の司法警察員に対する昭和三十四年五月七日附供述調書中の被告人の供述記載、並に領置にかかるKの日記(昭和三十四年領第四十九号の三)中の記載によれば、前記被告人方に出入し被告人のもとに接近していた、右Jの長男K(当時十六年)は、被告人の判示第一の(六)及び第二の(一)の犯行当時である昭和三十三年十月二十四日、睡眠剤を呑み自殺を遂げたのであるが、同人は、右日記中その同年九月二十九日の欄に、「俺はいつ殺されるか知れない。いやこのままだとかならず殺される。その殺人者達をつかまえるために、この日記をつけておく。俺は殺されなくても自殺するだろう。俺は死をこわいとは決して思わない。ただ、あの人たちをいつまでもほうつておくと、俺みたいなチンピラがけつして消えず、多くの人達がめいわくをするのである  ある学校の先生、小寺さんがおそろしい。不良グループの親分である。シャバの人々は「まさか先生が」と、うたがうだろうが、これは(事実)です。小寺はおそろしい男です。……俺は一人になると、つくづくいやになる、こういう生活が。はやくかたぎになりたいと思う。しかし、……へたにこんなことを一言でも言えば、(すぐ)に制裁をうける。親分小寺のことを口にしただけでも受ける。小寺は先生だから、もし、この事がバレれば警察はじめ新聞にも出るだろう。小寺はこういつた事がある、「俺は体を張つている」と。ほんとうにそうである。教師でありながら不良グループ団の親分であるからだ。俺がこのグループ団の団員になつたのは二週間前の土曜日、その日は小寺のいる町の御祭であつた。俺だつて好きで入つたのではない、入れさせられたのだ。小寺のいる町には、俺の好きな女性が一人いる。小寺の家からそうはなれていない。俺は、小寺に会い、ある場所で小寺は、じんぎを切つてきた。俺もつとも、チンピラの下ぱだから、じんぎなんて、そのな、しやれたものは、ぜんぜんしらねえ。だから、俺は、だまつていたら、小寺は「自分の名前のあいさつが、できねえのかよう」といつて、けつぱぐられ、そうとうなぐられた。そして、俺は団員になつてしまつた。むしろこわかつたからだ。そこは、俺にとつて地獄よりこわい町になつてしまつた。その町、俺の好きな女がいる。前は、その女の家にちよいちよい行つていたが、その事があつてから、俺は、行きたくても、恐ろしくて行けなくなつてしまつた。そして、それからは俺の生活がまるでかわつてきた。俺は、今まで警察にもちよいちよいやつかいになつていたけれど、しんからの悪じやねえ。俺だつて良心つてものがある。今までは、そういう友達と会つても、そう気にしなかつたが、俺の友達が皆んな、そのグループの人だと、わかつた時から、俺は、皆んなと会うのがいやになつた。

俺は、大人になつてもこういう仲間から、手を切れないならいつそ死んでしまつた方がよいと一人で苦しんでいる。……俺は今、恐ろしい運命の別れ道に立ついている。地獄と極楽の!(( )内は原文中の脱字、誤謬を訂正したもの)と、また、その十月六日の欄には、「今日も雨だ。俺は、一人で考えた。こんな生活から足をあらつて、かたぎになりたいと。そして、どこか、皆んなのいない土地に住(み)こみで働らきに行こうと。むろん、だれにも言わずにだ。しかし、すぐ後の考えた。いつまでたつてもかたぎになれないならば俺は自殺しようと。それから、それでいいんだと一人で賛成した。そこで俺は、今日から、きかいがあつたら、死のうと、かくごをきめた。この世の中にみれんはない。ただただ一人の女がいる。俺は、そいつがすきだ。それで心がまよう。けれど俺は死ぬ。」(同)と、なおまた、その十月二十一日の欄には、「……俺が自殺するのは、十一月三日すぎだろう。十一月三日は洋子と鎌倉で会う約束だから、それが済んでから、きれいに死ぬ。この世に未練はなんにもない。今でも死にたい。」と記載し、さらに、これにつづいて、「ここに、俺の生れてから今までの人生を書いてみる。俺は、昭和十七年五月二十四日、東京で生れた。そして戦争中三つぐらいの時母が俺を背おつてばくだんのふる下を、あつちこつちにげまわつたらしい。そして無事に命がたすかつた。それから小学校一年は、千葉県○○町○○小学校という小さな学校に入つた。その頃父は、横浜で働いていた。俺は母と二人でその日その日を送つていた。学校では、俺が一番頭がよかつた。級長はいつも俺だつた。云々」と書きのこして、その三日後である昭和三十三年十月二十四日、同人が被告人のもとに接近していたことを深く後悔し、被告人を恐れ、かつこれを怨み、あたら春秋に富む十六才を最期として自殺を遂げていることが認められるのであつて、当時被告人が前記の如き所為に出ていたことが、右Kが自殺を遂げるに至つた直接かつ決定的な原因をなしているものであるか否かは兎も角、その大きな一因をなすものであることは、さらに一点の疑いをさしはさむの余地なく、かくの如く、前途ある少年にあたら自殺の契機を与えて貴き一命を失わしめ、その肉親親族はもとより、その知人に至るまでを、悲歎の涙にくれるに至らしめるに至るが如き、所為に出でた被告人の人格には、そこに、また、幾多の非難を加えねばならぬものが存していたものといわなければならない。

かく検討し来れば、当時被告人の人格には、多くの非難を受けねばならぬものがあつたといえる。判示被告人の所為は、かかる幾多の非難を受けねばならぬ素質を有する被告人の人格に胚胎し、しかも、現に中学校の教職にある被告人が、近時非行性少年の続出する社会的環境下にあつて、それらの非行性少年を、その誤れる独自の所信に基き、常軌を逸した、極めて非合法的な手段方法により補導矯正する意図のもとに、生起せしめたものであるから、そのこれを敢行するに至つた動機については、いささか憫諒すべきものがあるけれども、そのよつて生ぜしめた社会的影響を考えれば、その犯情(犯罪の情状)は、決して軽いものとは云い難い。

しかしながら、その犯罪後の情況についてこれを見るに、被告人は、本件について、昭和三十四年四月二十六日逮捕されてより、同年十月十二日再保釈となり釈放されるに至るまでの間、実に前後百三十一日間の長きに亘り、社会より隔離された拘禁生活をおくり、同年五月十六日本件の起訴を見るに及んで休職の行政処分を受け、その間に深くその前非を悔い、搜査官憲の取調以来本件所為を自供しているのであつて、改悛の情が認められる。

(法令の適用)

これを法令に照すに、被告人の判示所為中、判示第一の(一)ないし(七)の各暴行の点は、それぞれ刑法第二百八条(罰金等臨時措置法第二条第三条)に、判示第二の(一)及び(二)の各日本刀不法所持の点は、それぞれ銃砲刀剣類等所持取締法第三条に違反し同法第三十一条第一号(なお、判示第二の(二)の所為は刑法第六十条)に該当するから、前記犯情にかんがみ、いずれも所定刑中懲役刑を選択し、以上は刑法第四十五条前段の併合罪であるから、同法第四十七条本文第十条を適用し、犯情最も重い判示第二の(二)の日本刀の不法所持の罪につき定めた刑に基づき併合罪の加重をした刑期範囲内において、被告人を懲役四月に処し、被告人が本件犯罪行為を敢行するに至つたその動機、犯罪の情状、犯罪後の情況、被告人の社会的地位並びにその性格、年齢、経歴その他本件の社会一般に及ぼす影響等諸般の事情をあわせ考えれば、今、これに実刑を科して、被告人よりその多くの教え子達及びその父兄等の信頼を一時に奪い、その社会復帰を困難ならしめるよりは、むしろ、この際右刑の執行を猶予して、被告人に対し、明かるく更生のできる機会を与えることの方が、最も刑事司法の目的に合致するものであると考えられるので、被告人には右刑の執行猶予すべき情状があるものと認め、刑法第二十五条第一項を適用して、被告人に対し、本裁判確定の日から弐年間右刑の執行を猶予し、領置にかかる日本刀壱口(昭和三十四年領第四十九号の一)は、判示第二の(一)の日本刀不法所持の行為を組成した物で犯人以外の者に属さないから、同法第十九条第一項第一号第二項により、これを没収し、訴訟費用は、刑事訴訟法第百八十一条第一項本文にしたがい、全部これを被告人に負担させるものとする。

右の理由によつて主文のとおり判決する。

(裁判官 上泉実)

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